サービス付き高齢者向け住宅「あんじん」開設にあたり
医療法人社団光栄会田谷医院 田谷 光一
私は、土浦市生田町で診療する傍ら、土浦市を中心に訪問診療をおこなっています。これまでに「最後は自宅で、家族と過ごしたい」と思う方々の看取りも数多く経験してきました。その経験を元に、私がこれからの高齢者に必要と考える住宅を土浦市内に開設することを決めました。
日本は世界でも類をみない超高齢化時代を迎えています。
超高齢化といっても、人間の致死率は100%。長生きすれば、最期に癌、心臓・脳血管障害、認知症になって、やがては誰でも平等に死が訪れます。しかし、そんな時にあわててはいけません。不幸にもお子さんに先立たれた方もいらっしゃるでしょう。結婚なんて必要ないと、お一人の方もいらっしゃるでしょう。超高齢化社会は、年寄りが仲間と相互に協力しお互いの死を受け止めていく時代です。いずれくる死を仲間と手を取り合って迎える。楽しみはこれからなのです。
サービス付き高齢者向け住宅の名前「あんじん」とは?
安心(あんじん)とは安心立命(あんじんりつめい)からでた言葉で、儒教において「天命を知り、心を平安に保つこと」または、「その身を天命に任せいつも落ち着いていること」を略したものです。また、浄土宗における安心(あんじん)とは阿弥陀仏の救済を信じて疑わず、極楽往生を求めることをさします。そんな言葉本来の意味を込めて「あんじん」と名前をつけました。そしてサービス付き高齢者向け住宅「あんじん」が目指すものは「平穏死」です。
人間、高齢者となってから大切なものは何でしょうか?
人は皆、年をとると枯れ始め、身体の不具合が現れてきます。不具合のほとんどが老化がらみですから、医者にかかって薬を飲んだところで、すっかりよくなるわけではありません。昔の年寄のように、年をとればこんなものと諦めることが必要なのです。ところが、年のせいを認めようとせず、「老い」を「病」にすり替えます。なぜなら、「老い」はその先には「死」があります。「病」なら回復が期待できるからです。何とか以前のようになろうなんて欲をかいてはいけません。年をとって、十分に老化していることを認めて、「年のせい」と思いましょう。その方が、楽に生きられます。
そうは言ってもやはり死ぬことは不安です。
そして、穏やかに死んでいく人をみると、死ぬことが恐ろしくなくなります。
「かたよらない心、こだわらない心、とらわれない心、ひろく、ひろく、もっとひろく…これが般若心経、空のこころなり」との教えがあります。医療にかたよらず、老いには寄り添ってこだわらず、病には連れ添ってとらわれず、これこそ、年寄が楽に生きる王道だと思います。年寄りの最後の大事な役割は、できるだけ自然に「死んでみせる」ことです。
しかし、日本の現在医療では簡単には死ねないのが現実です。
「できるだけの手を尽くす」は「出来る限り苦しめる」という医療や介護になることもあります。そこに必要なのは在宅医療です。理想は「在宅自然死(平穏死)」。「在宅自然死」とは文字通り、できるだけ医療とのかかわりを持たないで、自然に見守る形での死です。ここでの医師の役割は、見守ることと、これから起きる変化を伝えること。そして、死亡確認と死亡診断書の発行ということになります。
とはいえ、少子化の時代に自宅に介護力があるとは限りません。
中には家族もいない方がいらっしゃるでしょう。必要なのは「死を待つ人々の家」のような施設です。「死を待つ人々の家」とは、1952年にマザー・テレサにより、インドのカルカッタに設立された施設です。貧困や病気で死にそうになっている人の最期を看取るための施設です。死期が近づくとそこに家族中でやって来て、食べられなくなった本人の周りで、家族は通常の生活をするそうです。それが、もっとも本人にとって安らげることかもしれません。家族がいらっしゃらない方は、施設の介護者が家族の代わりをしてくれます。
生きているうちに行われる最大の儀式は「生・結婚・死」の三つです。
このうち、自ら決められないものは生と死の二つ。そこに共通するものは自分自身の手で「世話や後始末」が絶対に不可能なことです。生も死も、だれかの手に支えられなければ成り立たないのです。なにも死ぬことだけを考えて生きるわけではありません。こういった施設があれば、死ぬことは心配がなくなり、今をいかに生きるべきかを考えられるようになります。
私達「あんじん」が目指すものは「平穏死」。
その思いを実現できる「あんじん」を土浦市神立町にオープンします。これから、入居される皆様が「終の棲家」として安らげる住まいを提供する、そため日々努力してまいります。